2026年9月にイギリスのHarry王子がロンドンへ拠点を戻した動きを契機に、1997年にフランスの首都パリで発生した自動車衝突事故により36歳で急逝した母Diana Spencerの足跡へ国際的な関心が再び向けられています。サセックス公爵の英国滞在は王室の制度的役割への議論を呼び起こし、過去にフランス現地で起きた重大事故の客観的経緯を再確認する機運を生み出しました。
この激突事故は1997年8月31日未明、セーヌ川右岸に位置するアルマ橋地下トンネルの13番目の支柱に車両が激突して発生しました。現場はパリ市中心部の一般道路でした。走行車両は大破しました。
当時Diana Spencerは、1996年に当時のCharles皇太子との離婚が法的に成立したのち交際していたエジプト人実業家のDodi Al-Fayedとともに同乗していました。2人は地中海でFayed家の所有するヨットで休暇を過ごした後、事故当日の午後にル・ブルジェ空港へ到着してパリ入りしていました。空港到着直後からオートバイに乗った報道カメラマンらによる追跡が始まり、夕方から夜間にかけて追跡行為は激しさを増していきました。
ヴァンドーム広場のホテル・リッツを取り囲む報道陣を回避するため、警備責任者は深夜0時20分ごろに陽動作戦を実行しました。正面玄関から囮となる支援車両を発進させる一方、DianaとAl-Fayedは裏手のカンボン通り出口から黒のMercedes-Benz S-280に乗り込みました。ステアリングを握ったのはホテル副警備責任者のHenri Paulで、助手席にはボディガードのTrevor Rees-Jonesが座り、車内で彼だけがシートベルトを装着していました。
裏口出発直後の急加速と地下トンネル突入
一行はシャンゼリゼ通りに近いアルセーヌ・ウセ通りの居住用アパートメントへ向かう走行ルートを設定していました。しかし裏口での出発を察知した二輪車や小型車の追跡班が即座に車両を追尾し、セーヌ川沿いの幹線道路で追走劇が展開されました。運転手のPaulは車内を撮影しようと接近する追跡車両を引き離すためにアクセルを強く踏み込みました。
ニューヨーク大通りからアルマ広場の地下道へ進入した際、法定速度が時速50キロに制限されていた区間を自動車は時速118キロから155キロと推定される猛烈なスピードで走行していました。下り勾配の入り口で運転操作を誤った車両はまず左側の側壁に接触し、その直後に鉄筋コンクリート製の第13支柱へ正面から激突しました。この強烈な一次衝撃によって車体はスピンし、対向側の側壁に跳ね返って2車線の路面をふさぐ形で停止しました。
運転していたHenri Paulと後部座席のDodi Al-Fayedは、車体前部が粉砕されエンジンブロックが客室へ押し込まれた極端な減速衝撃により即死しました。前席のTrevor Rees-Jonesは頭部に重篤な損傷を負い、顔面骨折や胸部外傷を伴いながらも生命を維持していました。Diana Spencerは潰れた前席と後部座席の間に挟まれた状態で生存しており、微弱な生命反応を保っていました。
現場における夜間救急処置と搬送先病院の開胸手術
事故直後のトンネルへ最初に到着した医療関係者は、反対車線を自家用車で偶然通りかかった医師のFrédéric Mailliezでした。Mailliez医師は車内の2名がすでに心停止状態にあることを確認し、後部座席の足元でうめき声を上げていた身元不明の女性に対して気道確保と応急措置を開始しました。医師の通報を受けたパリ消防隊の救急本部隊は、深夜0時32分に現場救助工作車と救急搬送車両を現場へ出動させました。
フランスの救助隊員は油圧カッターと空圧スプレッダーを使用して歪んだドアや車体ピラーを切断し、狭い空間から負傷者を救出する作業を進めました。フランスの救急プロトコルは搬送前の循環動態安定化を最優先するため、車外へ搬出されたDianaの体位固定処置には約45分間が費やされました。この救助活動の最中にDianaは一時的な心肺停止に陥りましたが、心臓マッサージと人工呼吸器の装着によって蘇生が行われました。
救急車は胸部内圧の急激な変動を防ぐ目的で速度を落としながら、午前1時41分に現場トンネルを出発しました。搬送先にはパリ13区にあり重度胸部外傷治療の専門医療体制を備えたピティエ・サルペトリエール病院が選定されました。
午前2時6分に搬送部隊が病院へ到着した瞬間、Dianaの血圧は急激に低下しました。執刀チームは減速衝撃によって引き起こされた左肺静脈の破裂に伴う大規模な体内出血を確認しました。外科医のBruno Riou率いる医療チームは開胸手術を実施して損傷血管の縫合を試み、約2時間にわたって直接的な心臓マッサージを継続しました。
懸命な医療処置にもかかわらず午前4時0分、Diana Spencerの死亡が執刀医によって正式に確認されました。在フランス英国大使のMichael Jayに訃報が伝達され、そこからロンドンの英王室および英政府首脳へと緊急連絡が送られました。
仏司法当局の血液検査と英国主導の組織的捜査
フランス捜査当局は過失致死の容疑で報道カメラマンの行動と走行環境に関する公的捜査を開始しました。運転手Henri Paulの遺体から採取された生体試料の毒物検査では、血中アルコール濃度が1リットルあたり1.75グラムから1.87グラムであったことが判明し、これはフランス国内の法定基準値である0.5グラムを3倍以上超過する数値でした。あわせて処方薬である抗うつ剤および抗不安薬の成分も検出されました。
国家憲兵隊犯罪研究所の鑑定班は破損したMercedesの車体を詳細に検証し、右側面に白色の塗料痕跡とプラスチック片を確認しました。技術分析の結果、地下道へ突入する直前に車体が白色のFiat Unoと接触していた事実が立証されましたが、当該車両と運転者の所在は特定されませんでした。
英国側ではロンドン警視庁長官のLord John Stevensが指揮を執り、2004年からPaget作戦と呼ばれる大規模な検証捜査に着手しました。2006年12月に公表された最終報告書は数百件の証言と第三者鑑識結果を集約し、衝突事故の主要因を以下のように結論付けました。
- 制限速度を大幅に超過した猛烈な速度での運転操作
- 運転手の体内から検出された高濃度のアルコールおよび処方薬の作用
- 進路妨害と追尾走行を繰り返したカメラマンらによる過度の干渉
- 後部座席搭乗者がシートベルトを着用していなかった事実
英国の検死陪審は2008年4月に最終評決を下し、運転手Henri Paulの重過失運転と追走したカメラマンの危険運転が合わさったことによる不法殺害であると公式に認定しました。
ウェストミンスター寺院の国葬と残された王族の歩み
Dianaの葬儀は1997年9月6日にロンドンのウェストミンスター寺院で執り行われ、礼拝堂内にはおよそ2000名の参列者が集まりました。王室の棺が通るロンドン市内の道路沿いには300万人の群衆が集まり、テレビ中継を通じて世界200カ国で25億人が儀式を見守りました。
当時15歳だったWilliam王子と12歳だったHarry王子は、父Charlesや祖父のエディンバラ公、叔父のCharles Spencer伯爵とともに棺の後方を歩いて行進しました。遺体はノーサンプトンシャー州オルソープにあるSpencer家の私有地内にある小島へと運ばれ、近親者のみで見守るなか埋葬されました。
成人したHarry王子が英国での拠点を再構築する動きは王室の歴史的転換点となった母の死の記憶を想起させます。公爵はイギリス国内で負傷軍人を支援する慈善団体などの活動に関与し続けており、王室制度と母の遺産を巡る公の関心は継続しています。

